山形市蔵王温泉 伝統こけしの宿 招仙閣のホームページです。本物の源泉掛け流し温泉と心づくしの手料理でお寛ぎください。

  • みちのくに 咲ける花々さはにあれど  松治のこけし 大輪にして(植木昭夫) 当家 初代松治 は、岡崎栄治郎とともに、蔵王高湯系を確立した工人といわれています。 一時期、こけし制作を中断していた松治は、昭和15年、ある熱心なこけし収集家の勧めで、こけし作りを再開。 そのとき作られた作品が、収集家の間で注目を浴び、今日の伝説的なエピソードとして語り継がれることになったのでした。

  • 特徴は、華やかな牡丹胴 に、丸みが豊かな頭部、顔は きりりと左上方をみつめる眼 にあります。 その気品はたぐいなきものであったと評されています。

  • 松治は 12歳のとき、土湯出身の阿部常松に弟子入り しましたが、ある事情によって常松が蔵王を去り師匠を失います。 その後、5歳年長の岡崎栄治郎に再入門し、修行を続けました。

  • 栄治郎さんとは極めて仲が良く、共通の趣味の尺八 は、お互い歯が抜けるまでともにその技を競い合っていたそうです。

  • 図:栄治郎作・松治作のこけし 松治は「相手呑み」で、一人では酒を飲みませんでしたが、相手がいるとよく呑んだそうです。 才気に溢れどちらかというと 神経質なタイプの栄治郎 さんに対して、松治は豪放磊落な性格 で、暇さえあれば釣りや鉄砲撃ちに興ずる趣味人でもあったそうです。


図:斎藤家家系図
  • こけしを作る工人は、むかし、木地師 とか 鞭櫨師(ろくろし) といわれていた人々でした。 木地師という職業は、奈良時代の正倉院御物の中の文書にもその名が記録されているほど古い職業です。 しかし、木地師の歴史が古いからといって、こけしの歴史も同じように古いというわけではありません。 木地師本来の仕事は、椀や盆類、鉢類などの漆器の下木地や、お正月ものとよばれる雑器や神器、柄杓などを作ることでした。

  • 写真:職人の手 木地師が、こけしをはじめさまざまな木地玩具を作り出したのは、ずっと後のことです。 こけしは、東北地方の温泉地を中心に発達したもの ですから、その発生はほぼ十九世紀の初期 ── 江戸時代は文化文政のころ と考えられています。

  • そのころ、東北地方の各地に湯治の風習が定着し始めていました。 農民たちは、一年間の労働で疲れた身心をいやすために、鍋や釜、ときには寝具まで背負って近くの温泉(湯治場)に出かけるのです。 そこで、湯治場やその近くに住む木地師たちは、豊富な木材を利用して、こけし、おしゃぶり、独楽などの木地玩具を作っては、 湯治客相手のみやげ用 に売りさばくことを副業とするようになったと考えられます。 湯治客たちはそれらを、同行の子どものために、留守を守っている子どもへのみやげにと買い求めて行きました。 そして、貧しい農村の女の子たちの唯一の遊び相手として愛されていました。

  • ですから、当時のこけしは木地も粗末でしたし、非常に安価なおもちゃ だったと考えられます。 しかし、明治の二十年ごろになると、それまでの不便な綱引きロクロから、能率も性能もよい足踏みロクロヘ進化し、 湯治場の発展に伴い、ますます増えるこけしの需要にこたえられるようになり、木地や描彩の技術も発達してきます。 そして、ただのおもちゃである下色物(粗末な品)と、一つの 工芸品として作る上辛物 とに分化し始めます。

  • 現在のこけしにみられるような形態や描彩が確立 してくるのもこのころです。 そして、それと同時に、木地を挽く技術やこけし作りの技術は、親から子へと伝えられる親子相伝だったのが、 他人をも弟子にとるようになり、伝承面での改革も起きてきます。

  • 写真:昭和20年代の温泉街 やがて、明治二十四年、日本で最初の郷土玩具雑誌『うなゐの友』 が出版され、こけしが初めて世に紹介されるのです。 そして大正になると、一般に玩具の収集が行なわれるようになり、こけしもまた、子どもよりは おとなの趣味・鑑賞の対象へと移行 し始めます。 また、それと相前後して、子どもたちのおもちゃの世界も変貌をとげ、昭和の初めにかけてブリキやセルロイドなど新しい素材のものに押されて、 こけしは子どもの世界から忘れられかけ、おとなの鑑賞にふさわしい上手物だけが残って現在に至るわけです。


【土橋慶三著:「こけし 〜伝統の美〜」より(1981年 立風書房)】



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